脳性まひ者 しんやのひとりごと

脳性麻痺による両上下肢機能障害と共に生きる筆者が、折にふれ、浮かぶ思いをつづる。

T春さんの訪問

 窓にさす陽の光がいくぶん傾きかけた午後の二時ごろ、ぼくはアパートの部屋にいた。すると、ベランダから呼ぶ声がする。
 だれだろう。
 四つん這いでいき、窓枠にひじをひっかけて開けてみる。
「あら、T春ちゃん…」
 障害者施設にいたときの利用仲間で、何か月前かに施設を出て、アパートを借りて暮らし始めた。同じ脳性まひで、電動車いすに乗っている。目のくりくりしたショートカットの三十代の女性である。
 障害者の地域生活支援団体の主催するその祝いの会に参加して以来、会うのは何か月ぶりかだ。ぼくも施設を出るとき、サポート、アドバイスをいただいた支援団体だ。こうして一般地域で暮らしていられるのも、その団体のスタッフの方々の協力があったからだ。
 驚いていると、T春さんは、
「ごめんね。連絡しようと思ったんだけど、この辺りはよく来るんで、ちょっと寄ってみたの」
「そうだったんだ。アパート暮らしは、もうなれた?」
 T春さんは、ここから電動車いすで三十分ぐらいのところに住んでいる。ぼくは気になっていたので聞いた。
「うん、だいぶなれたかな。あと、もう、すっかりよくなったんだけど、新型インフルエンザにかかって、ちょっとびっくりした」
「あぁ、新型インフルエンザは、ちょっと、びびってしまうよね」
「うん」
 たいへんだったようだが、にっこりうなずくT春さんは、いかにも元気そうで、ほっとした。
 T春さんの話を聞きながら、ぼくも施設を出るための勉強はしていたけれど、こまかいところは、はじめはわからないことが多かった。少しずつおぼえて、やっていけばいい、とサポートの方から言われていた。その同じ事業所のヘルパーさんにも、いや、はじめから、すべて把握しておくべき、と熱く語る人もいる。人によって、言うことが違っていると、なにがなんだかわからない、と思うこともあった。
 そのときの自分のようすを思い出すと、いまは笑える。はじめはわからなくて、いろんなことがあったな…。施設を出てから二年、いや、三年か。どれくらいたつのかも、すぐには答えられなくなっている。いつも関心があったのは、これから、どのようにしていくかだった。
 障害者の施設で暮らしていた人が、アパート暮らしになる。役所への届けや手続きがすんで落ちついてくる。すると、なにをしていいかわからず時をもてあます、という話も、だいぶむかしから、ぽつりぽつりと見聞きしていた。
 ぼくもそうなるのではないのか、と心配してくださる方もいた。けれどぼくにとって、いまのこの暮らしは、はじめからやりたいことがあり、その手段として考えていたものだ。
 何を思い込んでか、ぼくが施設を出るとき、
「アパートで、ひとり暮らしをすることが、夢だったんだもんね」
 急にニコニコしてそう言ってくる職員の人が何人もいて、そのたびに、はあっ、と眉間にしわを寄せて聞き返してやりたい気持ちになった。ぼくは何年も、施設の現場の問題を、施設内でうったえ続けていた。チクリ魔だろうが、なんと思われてもよかった。特に障害の重い利用者に険悪になる施設の現場を変えていきたい。それだけだ。そのたびに、いちばん責任のある職員の方から、
「施設で働く人間が言うのもなんですが、悲しいけれど、施設はけっきょく、施設なんです。現場は尾崎さんの言うとおりです。力不足で、ほんとにもうしわけない気持ちです。尾崎さんみたいな人が、こんなところに引っ込んでいるなんて、わたしはもったいない気がしてるんです。どうでしょう。地域での生活を考えてみては…」
 何年も言われ続けていた。たったひとりで暮らしている母親を、心配させたくない、という気持ちがあった。はじめは気がすすまないでいた。
 けれど、いくら努力しても、施設の現場は少しもよくならない。施設内の会報みたいなものに頼まれて文を書けば、自分の意としないものに直され、そのままぼくが書いたと名前を出される。不満だったが、めんどうくさくなり、しまいには、もう何も言わずにいるようになっていた。
 そのうち施設内で、ただで頼まれてやることがバカバカしいという気持ちになってきた。だったら、せめて、見返りをくれ! そんな気持ちだった。そのままいて何をしても、こんなぐあいになるだけだ、と思い、しばらく文を書くことはやめていた。そして施設を出たいと考えるようになった。障害者地域生活支援団体のスタッフの方へ、紹介してもらって施設を出る相談をするに至ったわけである。
 そんなぼくだが、はじめは、こんなふうにも考えていた。やりたいことをしながら、なんとか収入を得られる道を探していきたい。けれども、自分に鞭を打ってムリするほど、運動神経の障害で、ぎゅっと力が入り続ける症状から生まれる、もう一つの障害がある。
 ふつうの人が使わない部分の筋肉を使ってしまうため、頸椎の骨がゆがみ、神経にさわっている。疲れや風邪などでも痛みが出てしまう。それが少しずつ進行してしまう問題があった。
 体をこわしてまで収入を得たところで、その先に何があるんだろう。なぜ自分は、そこにこだわるのだろう。すると幼いときからの施設での日々が浮かんだ。
 家族以外の大人に囲まれての生活は不安だった。だれもぼくの話は、まともに聞いてはくれない、という思いがあった。健常児とくらべて幼稚だと決めつけられている。施設の職員の指導という名のもとに出る言葉のはしばしから、そういう思いが向けられているように感じられ、子ども心に傷ついていた。歯を食いしばっていた日々の一つ一つがよみがえった。
 いやな気持ちになった。が、そんなものに負けてはいられない。その感覚をあえて味わってやるぞ、と思った。しばらくすると、やがて落ちついてきた。
 それをくり返すうち、徐々に考えも変わっていった。障害をもって生まれた命が、健常の人のようにならなければ世の中では認められないなんて、そんな考えは、いまはもうただのガラクタだ。一刻も早く、捨て去らなければならない。
 カメはウサギになれないし、ウサギだってカメにはなれない。梅のタネは桜に育たないし、桜も梅にはならない。それぞれには、それぞれの幸せを求めて生きる権利があり、どんな命も依存し合いながら生きている。
 障害者が健常者になるために、一生歯を食いしばって生きていくなど、そんな人生になんの意味があるのか。かりになんとか健常の人のようにできたとして、すごいと誉められはするが、それで本人はうれしくないし、世の中がよくなるわけでもない。
 障害者はムチ打ってがんばって、健常者のようでなければならない。そうでなけれは一人前の口もきいてはいけない。そんな価値観を当然とする習慣が続くばかりだ。
 ならば、この体の障害があるからこそ、ぼくにしかできないこともあるはずだ。それを考えるほうが、ずっと生まれた意味がある。そんな気がしてきた。
 障害があるからこそ、みえる世界があり、感じていなければならないことがある。
 運動神経の障害で、あまりうまく言葉が話せないが、パソコンを使えば、それを文にして伝えることはできる。この力をもっとつけていきたい。
 障害があるからこそ、あえてかざらず、かっこつけず、自分の心のあるがままをおもてに表しながら生きていく。いかに正直であり続けられるか。自分はそれで社会で戦っていくんだ、なんて、このところは、大それた妄想までするようになった。けれど、それを一つの目標として、日々、少しずつでもあいた時に勉強し、力をつける努力は続けている。
「ねえ、ねえ、尾崎さん」
 T春さんの声で、われに返った。
「それじゃ、また来るね」
「うん、この辺りに来たら、いつでも声かけてみて」
「うん、たいへんなこともあるけど、がんばろうね」
 T春さんは言い、電動車いすを操作しながら帰っていった。