脳性まひ者 しんやのひとりごと

脳性麻痺による両上下肢機能障害と共に生きる筆者が、折にふれ、浮かぶ思いをつづる。

ごろんとなって

 部屋でひとりになると、敷き布団の上へ這っていき、ごろんと横になる。昼十二時までの訪問のヘルパーさんが帰ってから、そうしてしばし休んでいた。
 ベランダの窓には、どんよりした雲が流れ、ときおり風がうなる。十一月にしては暖かな日が多かったが、これから寒くなっていく気配だ。
 そういえばきのうの今ごろ、実家の母(八十代)がバスと地下鉄を乗り継いで、一人暮らしをしている息子のようすを見に来ていた。
しんやは、年賀状、どうやって出すの」
 と聞かれたとき、もうそんな時季か、と思ったのだ。
 パソコンで書いた年賀状を、印刷しようとしたらプリンターが壊れていて、焦ったことがあった。それもあって、いまはネットのオンラインサービスを利用している。年賀はがきを出すときは、もうプリンターは使わないし、人に頼んで投函してもらう必要もない。自分でやるパソコン操作だけで、相手に届くのである。
しんやにそう教えられても、魔法にしか思えないなぁ」
 パソコンをのぞき込んで、母は首をかしげる
 ふいに言った。
しんや、気晴らし、してんのが」
 うん、と返事して、
「この前、カラオケ店に行ってきたし」
 すると母の顔が明るくなり、
「なに、歌ったの」
「ヒゲダンとか、YOASOBIとか」
「ああ、テレビによく出てたな。それは、よかった」
 母のほうが歌番組をよくみて知っているので、すぐ伝わるのである。
 しばらくいろんな話をしていた。母が壁の時計へ目をやり、
「あ、もうすぐ二時だ、バスが来ちゃう。しんやもあと少しで、ヘルパーさん来る時間だべ。ごろんとなって、少し体、休めなさいわ」
 風邪だけ、ひくなよ。そう言って帰った。
 布団に伸びながら、そんなきのうの出来事を思い浮かべていた。疲れがとれたので、起きあがる。
 箸をつけたサンバイザーをかぶってパソコンに向かい、頭を動かしながら、キーを打つ。
 さっきまで鳴いていたカラスが、いつのまにか静かになった。山へ帰ったのか。窓の外が、すっかり暗くなっている。雨と風で、今夜は荒れそうだ。

ネットサービスが 使えなくなっていく!?

 ネットバンキングは、振り込みなどの手続きが、うちにいながらにして済んでしまう。パソコンさえ操作できれば、ヘルパーの訪問を待って頼む必要がない。
 家賃の支払い、ネットショッピングへの振り込み手続きなど、ほとんどひとりでできていた。
 銀行のセキュリティー強化対策で途中から、仕様が変わった。ログイン後に、ワンタイムパスワードを打つ手間が増えたのである。
 それだって、Eメールでパソコンに届くから問題ない。割り箸をつけたサンバイザーをかぶってやるぼくは、モニターに表示されているのをみて、頭を動かしながら入力するだけである。
 ところが、また変わった。
 セキュリティーをさらに強化するための仕様変更を知らせるメールが届いて、
「なんじゃ、こりゃ」
 パソコンで振り込みをするとき、これからは専用アプリを入れたスマホを同時に操作してお使いください、という意味のことが書かれていた。
 ワンタイムパスワードは、スマホのほうに表示される。しかも1分ごとに変わるから、その前に入力せよ、ということらしい。
 このぼくの、自由のきかない体で、どのようにすればそれができるんだ。
 考えてみたが、自分でやるのは、もうあきらめるしかなかろう。かりに決まった時間に訪問するヘルパーさんに、手伝ってもらうとする。
「え~と、ワンタイムパスワード入力ね」
「すぐ変わるんで、速く、お願いします」
「え、もう、タイムオーバーなの?」
 何回かヘルパーさんがチャレンジしてくれたあと、
「あ~んもう、これ、むりだわ~」
 となるのは、目に見える。
 たしかに、この社会は善人ばかりではない。どんな便利なサービスが現れても、悪用する人がいる。その防犯対策として手間がかかるようになってくるのは仕方がない。
 けれど、困るのは障害者ばかりではあるまい。この生活を支えてくれているヘルパーさんだって、高齢化してきている。そう、もうおじいさん、おばあさんが大半を占める社会なのである。ネットサービスが、こんな俊敏さを求めるほうへシステムが進んでいっては、追いつけなくて、利用できる人がいなくなってしまわないか。
 ほかのサービスのセキュリティー対策も、強化されていくことだろう。ショッピングサービスはどうか。ドラマの見逃し配信サービスは、どうか。YouTubeは、どうなるか。
 体が不自由でも気兼ねなく、ひとりで楽しめていたことまで、これから少なくなっていくんじゃないか。ちょっと、心細い。

う~む これを前向きに、といってもね……

 きのうの昼ごろ、玄関の戸が開いて、
「おいっす」
 実家の母が、アパートで暮らしている息子のようすを見に来たのでした。
「いやいや、つまんね。なんで、こんなんなったんだべなあ」
 ため息をもらしていたので、なにか、あったのときくと、
「外さ出っと、店のいすにでも腰かけで休むっちゃ。すっと知らない人ともしゃべっぺ。それがお互い気晴らしになってたのね。いま、どこさいっても、シーンとして、だれもしゃべるひといねんだもん」
 まったくそのとおりだと、いつしかいっしょになって、その話をしていました。
 ことしは新型コロナウイルスに振り回されつづけた一年です。テレビではさかんにその危険性を報道しています。うつるのも、うつすのも、こわい。ぼくも電動車いすでひとりで散策するのを控えていたし、ストレス解消のカラオケ店も行っていません。出かけるのは介護サービスを利用しての用足しぐらいです。
 テレビもラジオも「人との距離をたもってください」「なるべく会話は控えてください」。このコロナウイルスは、まるで人と人を、引き離したい、という意思でもあるのかと思いたくなります。それをむりやり前向きに受けとめるとするならば、
〈これまでのがんばりは認めるけれど、ちょっと方向が違うから、気づいてほしい〉
 そんな感じになるのでしょうか。
 いまの生活状況を、なんとか前向きに受けとめられるヒントはないかと、たくさん本を読みました。そうです。毎日が楽しければ、わざわざそんなに本なんて読まないのです。その意味ではたぶん、作戦タイムで中断している時期なのかも。と妄想してみますが、やはりこれがずっと続くのは、つらい。
 フランクに人と交流できないのは、さびしいです。この冬は寒いのでなおさら、ほっとするような心のぬくもりを感じられる、そういうふれあいが恋しくなるときがあるかもしれないですね。
 あしたはクリスマスイブです。
 母は、フィギュアスケート羽生結弦くんの切り抜きをながめて過ごすそうです。ぼくは本田望結ちゃん、森七菜ちゃんの天使の笑顔をYouTubeでながめてすごそうか、と思います。