脳性まひ者 しんやのひとりごと

脳性麻痺による両上下肢機能障害と共に生きる筆者が、折にふれ、浮かぶ思いをつづる。

デカいテレビになって お~~~

 いまPCモニターとしても使っているテレビは、ことしはじめのほうに買ったものだ。なんせ画面サイズが40インチである。
 ひとり暮らしのアパートの部屋は、ふだん四つんばいや正座で過ごしているが、調子のよくないときは車いすもOKの8畳。とはいえ、テレビの放送をみるには、デカすぎるんじゃないか。
 ほんとうは、32インチのサイズのテレビがほしかった。このくらいがぼくの部屋にちょうどいいのである。するとパソコンのモニターとして使うには、解像度の低すぎるのしか出回っていないらしい。パソコンをテレビにつなげる人は、世間にそういないのかもしれない……。
  テレビとPCモニターと、2台置いたらどうか、とも言われた。部屋がごちゃごちゃしてしまうのが、いやだった。1台で済ませたほうが、すっきりしよう。
 かりにぼくも手足に障害がなければ、ものが自由に扱えるだろうから、たぶん、こういうやり方はしないかもしれない。
 それはそうとしてパソコンのモニターは、フルハイビジョン以上の解像度がなければならない。32インチのテレビだとハーフハイビジョンというか、半分になってしまうのである。
 解像度がこのように低いと、どうなるか。
 ソフトの枠ばかり大きくなり、作業領域がせまくなる。ワープロ表計算も、全体が把握しづらくてしごとにならない、という事情があった。
 ただ画面が40インチになってしまうと、やはり、
(テレビの放送をみるのには、デカすぎじゃないか)
 設置してもらうまで、そこが気になっていた。
 月日が流れた。
 恋愛のドラマは、みるほうではない。が、このところ楽しみにしているのがある。TBSの〈この恋あたためますか〉。コンビニ会社のスイーツ開発現場が主な舞台である。
 スイーツ開発部のパティシエのおにいちゃんが、途中から入ってきた主人公の女の子の突飛なようすに、はじめは振り回される。気にしない女の子で、予想外のスキンシップがたくさんあるのね。
 そうなるわなぁ。心の中でうなづいていた。そのパティシエのおにいちゃんに恋心が芽生え、思いを抑えられなくなっていきなりキスしてしまうシーンにである。
 ぼくは正座してみていた。
 キスされた女の子役の森七菜ちゃんの、何が起きた? というような表情の、かわいらしい顔が、40インチの画面にどアップになり、
(お~~~)
 ひっくりかえりそうになって、あわてた。森七菜ちゃんじゃ、そうなるよ~~~。
 生まれてこのかた、つきあってくれる恋人はいたことがない。白髪もふえてきた。この冴えないオッサンにふだんの生活で、こんなドキドキの出逢いは、ない。
 デカいテレビがあるおかげで、あこがれの女優さんに逢えるひとときが、なによりのしあわせになってしまった。

マスクごし

 電動車いすに乗せてもらい、うちの近くの公園をひとりで散策していたが、かえって息苦しくてくたびれるから、しばらくやめていた。
 うちを出るとき、マスクをしなければならないからである。
 伊達メガネで押さえる方法は思いついた。それでもマスクは動いてしまう。マスクがずれて目隠しになったとき、手が思う通りに動かず、なおせない。助手が必要なのである。
 新型コロナウイルスが流行りだしてから、ひとりでの散策はひかえていた。ずっとうちの中にいるのも、息がつまってくる。電動車いすでおもてに出れば、すれちがう人が、こんにちは、とか、きょうはあったかくていいですね、とか、自然な雰囲気で会釈してくれる。脳性まひの症状でかってに力が入り、ぼくの顔がゆがんだり、手もかってに動いてタコおどりのようになる。びっくりしてみる人がここ数年いなくなり、ふつうにあいさつしてくれる人がふえていた。
 短い期間になぜか。たぶんみる感じぼくと似たような障害のある車いすの人が国会議員になり、助手に指示しながら自身の意見を工夫して伝えるシーンがテレビで流れた。それによって、
「体が動かなかったり、うまくしゃべれないだけで、話はちゃんとわかるんだ。わたしたちと変わらないじゃん」
 という理解が進んだ面もあるのでは、とおしはかってみたりする。
 そういうやりとりが街で増えてきたのが、ぼくにはうれしかった。ただ、言語障害ではっきりしないぼくのことばは、マスクをつけるとさらにくぐもって、何を言っているか、相手の人が聞きとれない、という悩ましさがいまはある。
 それでも食材を買いにヘルパーさんに手助けしてもらいながら、近くのスーパーに行っていた。コロナ禍のせいなのか、なぜかこの前閉店してしまったが、心に残る出来事があった。その店内でメモに書いた食材をヘルパーさんがみて買い物かごに入れてまわっているあいだ、ぼくは電動車いすを操作しながらひとりでメモった以外のものを見て回る。電動車いすをとめて眺めていると、
「おっはー!」
 うしろのほうからぼくの両肩をさすり、笑みをうかべた白髪のおじさんの顔がのぞく。しばらく見なかったけど、来てたの? ときかれ、ぼくはうなずき、来てたよ! と答える。いつも品物を運んで棚にならべている従業員さんと、そうしてはなしをするようになっていた。
 お客さんからも、この電気の車いすって、免許とか、いるの? ときかれる。免許はいらないけど、ぼくのばあいは、訓練してOKになったんです。そう伝えると、
「あたしも、ほしいなぁ、と思ってね」
 年配のご婦人さんで、道が遠いと、足が痛くて歩くのがたいへんでね……、とため息まじりに呟く。それがきっかけで、声をかけてくれるようになった。
 人が込んで、電動車いすで進むも退くもできなくなった。困ったな、と途方に暮れる。そっと、
「どこへ行きたいの?」
 眼鏡をかけた老紳士のお客さんだった。マスクごしではことばが聞きとれないと思い、
「あっち」
 といって、顔をそのほうへ向ける。
「あっちに行きたいの?」
 ほかのお客さんたちに、あっちへ行きたいんだって、と伝えて道をあけてくれた。
「ありがとう」
 そういう言い方をしたのも、言語障害ではっきりしないのに、マスクごしで〈ございます〉とつづけると、かえってごちゃごちゃして伝わらなくなるからである(ゆるしてください)。
 どこへ行きたいかきかれて、いい年をしたオッサンが〈あっち〉、なんていっている。本人はけんめいにそう伝えているのだが、われながら子どもじゃないかとおかしくなりながら、じんわり温かなものが胸にひろがっていた。

ソーシャルディスタンス いまはうちのなかで……

 エアコンのリモコンのボタンを押す。うちのなかではこのところ、とりわけこれがなかなか煩わしい、と思うときがあります。
 脳性まひの障害でおきる不随意運動がありますが、そのときによって、からだがいつもよりいうこときいたり、きかなかったりします。
 狙いをさだめたリモコンのボタンのところに、うでがその意志どおり動いてくれれば、げんこつの角でボタンを押します。
 ですが、どうがんばってもあさってへ手がいってしまうときが多く、だいたい鼻でボタンを押します。
 25度にして、よし、とくるりとうしろへ向き、パソコンの前に這っていきます。
 割り箸のついたサンバイザーをどうにかかぶり、それから正座します。頭を動かしながらパソコンのキーを押していると、
「なんか、アジ~」
 だんだん汗が出てきます。
「やっぱ25はだめだ、1度さげるべ」
 せっかくかぶったサンバイザーですが、頭を動かして、テーブルの縁にツバの箸をひっかけてとり、くるりとうしろへむいて、エアコンのリモコンのある布団のところに這っていきます。鼻でボタンを押します。24度にして、「よし」
 ところが、しばらくすると、汗が引っこんできて、涼しくなりすぎます。
 そうして何度か行き来し、あ~もういい、となります。
 やっぱり25だと筋緊張で汗が出やすいので、これでいいやと涼しいほうの24度で折り合いをつけます。
 くたびれてぼんやり窓の外を眺めると、晴れて雲がない。ふとカレンダーをみる。六月九日か、もう夏なんだな、と思ったりしています。
 夏になるといつも出かけていた仙台七夕まつりも、花火大会も、音楽等のイベントも、コロナのウイルスのせいで無いんだなぁ、とさびしい気がします。
 夜明け前がいちばん暗い、という話は五木寛之の本で読みました。
 よくテレビで小池百合子東京都知事が呼びかけていた「スティホーム」の意味がはじめわかりませんでしたが、コロナに感染しないよう家にいましょう、と説明をあとにつづけていたのでした。
 そんないま、ぼくはうちの中でなにをしているか。だいぶ前からしていることですが、クリヤーファイルにいれて、音読、言語訓練をするのに適当な文の書かれた本を、時間があればひたすらパソコンに打ち込んでいます。去年のいまごろから数えると、つまりこの一年間では5冊の本を打ち込みました。
 言葉が不自由でも、なるべくはっきりしゃべれるようにしておけば、町の関わり馴れない人とも挨拶ぐらい交わせるかと思うのです。
 やっぱり地域の人と、あんまり交流ができないのは、さびしい。でもいまはワクチンがまだない新型のウイルスがいるから、しかたないね。
 コロナの心配がなくなると、これまでよりも、いい社会になっていくんじゃないかという説をいっているひとたちもいるようです。いろんな差別がコロナでゆさぶられて浮き彫りになり、そのおかしさに気づく人が増え、みんな違って、みんないい、そうなっていくんじゃないかと。スティホームをつづけなければならなかったり、がまんやつらい思いをしたぶん、このコロナの終息後は、そんなふうにせめて社会がよりよいほうへ向かってほしい、と祈るばかりです……。