脳性まひ者 しんやのひとりごと

脳性麻痺による両上下肢機能障害と共に生きる筆者が、折にふれ、浮かぶ思いをつづる。

〈ATARU〉くん

〈ATARU〉くんとは、スマップの中居正広さんがドラマで扮していたサヴァン症候群の青年である。
 十年ほど前だったか、NHKの特集番組で、この障害のある海外の人たちを取材していたのをみたことがある。左脳が働かず、そのぶん右脳が発達した人や、その逆の人、そんな仮説の紹介もあった。
 日常生活やコミュニケーションは不自由だが、いちど読んだ本の内容を、ぜんぶ記憶していたり、いちど見たものを写真のように覚え、絵に再現する。いやなことも、忘れられないと苦しんでいる人もいた。
 日曜日の夜九時、TBSの日曜劇場で、ひょんなことから刑事をサポートすることになる、ちょっとお茶目なキャラで登場していた。症状独特の手の動き、顔の表情、目つき、賛否両論は耳にするけれど、ぼくは中居くんのその演技、よくがんばっていると思ってみていた。
 障害をもった人物がドラマで取りあげられるたび、
「バカにしてる」
 とか、
「あれはないよ」
 とか、否定的に騒ぐ人たちがいる。むかしはそれへ、逆に怒りさえ覚えたことがあった。
 そんなことをしていたら、障害をもった人物をドラマに取りあげるのが面倒くさくなり、お茶の間に登場しなくなろう。いつまでたっても未知の存在のまま、仕切りがなくならないではないか。
 じっさい福祉がすすんでいるようでも、街で脳性まひのぼくの姿をみて、怖がる人も、決して少なくはない。
 脚本家、監督、俳優、視聴者も含めて、わかる人にはわかるし、わからない人には、気づく機会、時期が来なければわからないのである。
 それより、いろんなひとの視野のなかに、障害者もふつうにいる。そんな社会にしていくための種まきにも、こういうドラマはなっているとぼくは思う。
 かりにひとつのドラマに、
「バカにしてる」
「あれはないよ」
 というのを〈障害者〉ではなく、〈健常者〉に置きかえてみるといい…。
 ひとつのドラマで描ける人物像なんて、せいぜい一面ぐらいだろう。見る角度だって、しかりである。だからこそ、こんどは、別の角度からみて描いてみようとなる。
 おととい日曜日は最終回だった。
「障害とか、病気とかっていうのは、なんていうか、名をつけて仕切らなければならないものでしょうか。愛すべき個性としてみることはできないものなんでしょうか。天才にしなきゃいけないものなんでしょうか?」
「わたしは、しっかり区別して、名をつけて、それぞれに合った対応を考えていくべき、と思います」
 たしか、そんなやりとりだった。ひょんなことから〈ATARU〉くんと出会った警視庁で働く者と、ずっと天才に育て上げるための任にあったFBI捜査官の言葉が心に響く。正しいとか、間違っているとか、ではない。どちらも〈ATARU〉くんの、これからを思う気持ちから発せられたものだ。
 重度の障害者、難病者は、いつも主人公としてとりあげられる。ときには喫茶店の隅にいたり、あるいは近所の友だちとかでも、いいのではないか。いつかそんなドラマが、みてみたい…。