重度の障害者なのに、なぜ一般地域での生活を選んだのか?
この文は、地域での生活を決意するまでの気持ちの流れを、整理するために書いたものです。胸にしまっておくつもりでおりました。
ですが、真の福祉の実現を願う者として、ぼくという、ひとりの人間が経験した福祉の現場を、一人でも多くの人に知ってほしいと思うようになりました。
数あるつらいシーンのなかから、いくつかをここにつづっています。ですが、犯人さがしになるのだけは避けたいところです。
そのため、出来事と場所を、じゃっかん、ずらしています。
障害者ががまんする、健常者ががまんする。その区切りを常に意識していなければならない。そんな社会からは、ゆがんだものしか生まれません。
障害のあるなしだけでありません。肌の色、地域など、その場にいても、みえにくい壁は、いろんなかたちで存在します。ひとつで完ぺき、という支えはありえません。大切なもののそれぞれの面を、ちがう立場(視点)からいっしょに支える。そのための多様性とはいえないでしょうか。認めあえる社会を、協力してめざせないものでしょうか。
だれもが生きがいのもてる社会の実現へ、祈りを込めながら…。
* * *
◆決意◆
◇ここ、どこ?◇
父はよく酒によい、母をめがけて茶碗を投げた。
テーブルをひっくり返した。
包丁を持って暴れ出すこともあった。すぐそばでそれをみていた、幼いころの記憶が、かすかにある。
夜遅く、母に負ぶわれ、道ばたにいた。母の背中からみえる、無数の明かりがきれいだった。その明かりの一つ一つは、山の斜面に建つ家々だった。
「もう、やっていけない」
母は、五歳になるわたしを負ぶって、父と暮らした家を飛び出した。
母の実家は、農家だった。母とわたしは、しばらくそこで暮らすことになった。母はそこから仕事場へ通っていた。
道路に面した部屋を借りて住んでいた伯母が、子ども相手の店を出していた。しゃぼん玉やメンコなどが売っていて、近所の子どもが買い物がてら、よく庭で遊んでいた。
茶の間にいると、子どもたちの呼ぶ声がする。
「あら、おともだち、来たみたいだよ」
テーブルを囲んでいた祖母、伯母に言われ、四つんばいで縁側まで這っていく。手で戸をあけようとするとふるえてしまい、うまくいかない。待たせることになるから、ひじをひっかけてあける。すると、
「あそぼ」
同い年ぐらいの子が、少し上のお姉さんといっしょだった。運動神経にかかわる障害で、うまくしゃべれないわたしのようすをまねてふざける男の子もいた。
となりに腰かけ、
「ふいてみて」
といって、ストローを口元までもってきてくれる。
「すごいすごい。しんやくんのしゃぼん玉、あっちまで飛んだよ」
子どもたちは、はしゃいだ。
手足が思うように動かせないし、いっしょにおしゃべりするにしても、時間がかかる。
それでも子どもたちなりにペースを合わせ、けんかしたり、遊んだりしてくれた。
思えば、たのしい日々だった。
気がついてみると、白い壁に囲まれた部屋のベッドに、ぽつんとすわっていた。
「ここ、どこ?」
はじめは病院かな、と思ったが、しばられている子があちこちにいる。見たこともない光景にふるえた。
大人のひとたちは、白衣姿で、むずかしい顔をしているひとが多かった。声をかけても、こちらに耳を傾けてくれるようすもない。
障害のある子たちだけが集められているところにいるのだと、なんとなく理解するようになる。
◇不信感
よく関わりのある職員は、いきなり、
「むかしの障害者は、座しきろうに入れられてたんだぞ! それにくらべたら、おめえら、恵まれてるんだぞ」
「おまえはなんだかんだって、生意気なんだ。みんなそういっているぞ」
なんで、そんなふうにばかり言われていなければならないのか、わからなかった。
うるせ~な。だったら、てめえが代わってみろよ。めんどうくさいので、平静を装っていたが、心のなかではムカムカしていた…。
わたしの知らない職員だけの会議の場で、なにか話されていたのだろうか、とも考えた。納得のいかない気持ちになる。
ワープロを操作するのに、はじめは指を使っていた。
といっても、手を動かすわけではない。体のほうを動かし、位置をコントロールしながら打っていた。
ためしに体を固定し、手だけを動かそうとすると、手があらぬほうへいってしまうからである。
運動神経にかかわる障害で、何かしようと思っただけでも、自分の意思とは関係なく、ものすごい力が入る。できあがる文は一時間に、せいぜい百二十字ぐらいだったろうか。それだけで体力が、だいぶ消耗された。
長い手紙や文がもう少しラクに打てる方法はないか。
あるとき、出かけた先で、ヘルメットに棒をつけ、あたまを動かしてタイプライターを打っていた人がいたのを思い出した。
「あれなら、もっと長い文が、ラクに打てるのではないか」
面会に来た母に説明しながらつくってもらう。
リハビリ担当の職員も、
「かえって、ひどいんじゃないの」
と気のすすまないようすだった。
けれど、サンバイザーに割り箸をつけたのをかぶり、ためしにやってみる。
なんとか、やっていける気がした。
けれど、母に買ってもらったワープロがあっても、自分の部屋に置いて使うことはゆるされなかった。
だれかを探しに行っているうち、書こうとした内容を忘れてしまう。だれもつかまらなくて、あきらめなければないことが、たびたびだった。
どうして、自分の部屋で使えないのか。
「ほかの入居者にこわされちゃったら困るでしょう」
それなら納得がいく。呆れてしまうのは、
「自分の世界にこもってしまうんじゃないの」
という職員が多いことだった。
ことばが不自由なうえ、ペンを扱うのもままならない。ワープロは、そんな自分の思いや考えをだれにでもわかるようにしていくための、唯一の手段だった。そういうことが、どうしてわかってもらえないのだろう、といらだった。
ただ、そこは外部の人もケアで関わることがあり、介助が必要でも、職員から離れて過ごしていられるときがあった。
教育実習の学生さんなどは最後の日、お別れのあいさつで部屋をまわってくれた。
「こんな言い方失礼かもしれないけど、真也くん見たとき、ワープロ使って文が書けるなんて、想像もしていなかったからびっくりしたよ。これからもどんどん活躍してくださいね。応援してるからさ」
「介助へたくそでごめんね。このまえの介助のとき、真也くん言ってたじゃん。障害者と健常者がいっしょに生きていける社会を実現する活動がしたいって。あたし感動したよ。応援してるから負けないでね」
そんなメモが置かれてあった。
◇期待が…
ワープロがすきなときに使えない悩みは、施設を移れば解決できそうだった。ところが希望先は空き待ちが何人もいるという。
そのまま何年も過ぎた。
そんなある日、新しい施設が建つ話を耳にする。
「詩のフレーズが夜中に浮かんで、忘れないうちにメモしておきたいときも、スタッフを呼んでかまわない」
「在宅の方で、施設に入るのはどうか、とためらっている方は、うちの施設に来てみてほしい。考えが変わるはず…」
そんな施設をめざしているという記事が新聞に載っていた。
家庭的な雰囲気を大切にしたい、という言葉から、どんな施設のイメージがわくだろう。
人間性を大切にしたケア、ときいて、どんなようすが思い浮かぶだろう。
迷わず、そこにしたいと希望を出し、すぐに入居できた。
ことばが不自由なわたしの話にも、スタッフはおちついて耳を傾けてくれたので、安心していられるなあと感じた。
夜なども、「アイスクリーム食べたいんだけど、あっちでいっしょに食べない?」と誘ってくれたりすることもあった。
職員も、同じ目線で接してくれるので、介助中も、自分らしく過ごしていられると感じた。
ところが半年、一年とたち、状況は変わっていった。
ある男性スタッフは、わたしの介助のあいだ、
「入居者(障害者)は恵まれてるけど、おれたちスタッフはこき使われてばっかりで、やってらんねえな。フン」
そんなふうにつぶやくようになり、こちらを冷たい目で見るようになっていた。
いやな気持ちだった。
入居者の数が増えれば、そうなるのではないか。心のどこかで予想はしていた。けれど、やはりはじめはショックだった。
介助をしているあいだも、利用者を無視し、男女のスタッフ同士でじゃらけだす。あるいは、仕事が終わってからの話で盛りあがる。
それだけだったら、別にいけないこととは思わなかった。
楽しそうだったので、わたしも、にこにこしながら、
「なにしてるの?」
遠くのほうだったら気にならないが、目の前だし、しかも介助中だったので、わたしもなんとなく眺めていた。すると、その男性スタッフは、
「わきまえてください」
冷たく低い声で言って、にらんでくる。びっくりしてしまった。こちらにはそうしながら、再びにこにこして、スタッフにいたずらしている。
そのじゃまをしないように気を使って、介助をうけて下さい、という、無言のメッセージ、と受け取った。
いま仕事で介助しているんだろう。利用者の迷惑を無視して、目の前で遊びはじめるなど、どっちがわきまえろだ、と思った。
特に食事時は、スタッフ同士の合コンの場と化し、騒がしくなってしまう。
介助のスタッフのびっくりするほどデカイ声が、あたまに響いてくる。
「○○ちゃん、仕事終わったら、デートしない?」
「おごってくれるの!」
「いい店あるんだ!」
そんなやりとりが延々と続いていく。夢中になって介助の手も止まる。催促すると、舌打ちする。
二十四時間、そういうようすのスタッフの介助を受けて過ごさなければならない。
大きな食堂に全員が集まって食べるのではなく、四っつのブロックに小さくわかれるかたちになっている。それは、利用者が家庭的な雰囲気で食事ができるように、という運営者の配慮からではなかったのか…。
どんなに迷惑でつらいことか、口にガムテープでも貼って、同じ扱いを受ける体験でもしてみなければ、この人たちにはもう、なにも感じなくなっているのだ、と思った。
チーフクラスのスタッフにも、そんな食事時などを見回って、
「楽しそうで、いいね」
ということばを残していくだけで、入居者のようすは、ちゃんとみていない人もいる。わたしはいらだって、もっと利用者の立場になって、ようすを見てください、と訴えた。
◇理念さえよければいいの?
施設運営側の会報にはいつも、
「うちのスタッフは優秀な人材」
とか、
「人間性を大切にしたケア云々」
とか、そんなことばかりが書かれている。
施設見学に来た人は、運営側がPRしている内容をそのまま信じ、期待して聞いてくる。にこやかな顔で、
「ケアスタッフは親切で、いいですね。食事の時間も家庭的で楽しそうですね」
「いつもスタッフの方とは、どんな話しをしてるんですか」
わたしはただ、引きつり笑いになる。
PRしている家庭的な雰囲気とは、なんなのか。
人間性を大切にしたケアとはなんのことなのか。
わたしのほうこそ、わからなくなっているのに、くわしく話してほしいと言われてしまう。
チーフクラスのスタッフにその悩みを言ってはみた。けれど、
「なんで、そんなことを言うの」
とため息まじりに返ってくる。まるで、さとすように、
「ここにはね。『共に生きる』という理念があって、スタッフはみんな、わかっているはず…」
心構えがほかの施設とはちがうのよ。それを信じて疑わないようすだった。
わたしはただ、ため息をつくばかりだった。
◇障害のあるなし じゃない
入居者会でなんとかできないか。
「何言ってんの? 外部の人をケアに入れるなんて、必要ないじゃん」
言語障害のあるなしでも、スタッフの態度が、変わってきてしまう。そんな傾向が、少なからずある気がした。
スタッフのペースに合う利用者は、それほど問題を感じないのかもしれない。
ある年にはラーメン屋を呼ぶのはいいが、女性スタッフに韓国ふうの、すけすけドレスみたいなのを着て配膳させるというものもあった。
わたしは心の中でムカムカしていたけれど、役員という立場上、顔には出さないで、会長の指示にしたがって働いた。
ほかはご飯のおかずに魚が二日続いた、とか、味付けが甘いのなんの、だから何とかしろ、とか、そういう入居者とスタッフのあいだで板挟みになって、利用されて動いているだけのように感じた。
何のために、ここにいるんだろう、とむなしくなってきた。
入居者会の書類を片づけていたら、首と肩に激痛が起こり、首が動かなくなった。
びっくりしたが、原因はほかにもあって、書類の片づけはきっかけに過ぎなかったらしい。いつそうなっても、おかしくないところまで、わたしの二次障害はすすんでいたようだった。
脳性まひ、という運動神経にかかわる障害で、自分の意に反し、ずっと強い力が体じゅうにはいったままになる。健常の人だったら、あまり使わない筋肉が発達し、骨が引っぱられつづけ、ゆがんでくる。
整形外科の先生に診てもらったとき、レントゲン写真を前にして念を押された。
「これじゃ神経がさわって痛いなあ。いまよりひどくなったら、手術しかないんだけど、よくなるとはかぎらない。かえってひどくなることもあるからねぇ」
主治医の先生に、
「布団を口にくわえて、自分でたたんだりしてるんだって? それじゃぁ、首痛くなるのも当たり前よ。それはやめたほうが、いいねぇ…」
そのあとリハビリの先生にも相談した。
「尾崎くんはね、十代や二十代では多少のムリはきくんだけど、三十代すぎると、それまでのムリが体に出てくるんだな。
車いすの乗り降りも自分でしてるようすだけど、リハビリ的にみると、ちょっと、むりやりすぎるんじゃないかって、思う。工夫して、ラクにやっているようには一見みえるけど、よくみると、体全体すごく力入っているし、首にもかなり、負担がかかっていると思う
がんばるのはいいんだけど、ほどほどにしないと…。
尾崎くんはね、いつ痛みが治まらなくなって、寝たきりのままになってしまわないともかぎらないんだよ。そうなったときのつらさは、ほかの人にはわからないんだから…。
とにかく、あんまりムリなことはしないようにな…」
どこまでがほどほどなのか、自分では悩むところである。
けれども、ここの施設にいるかぎり、入居者会で利用されて終わってしまう。そんなふうに感じるようになってきた。
役員としてやっていることは、自分の目的や満足につながるものではなく、むしろ逆へ向かうために、使われている、というだけだ、と…。
相談するわたしをさとしていたチーフのスタッフが、なにか気になることがあったらしい。
「あのとき尾崎くんの言いたかったことが、最近、なんとなく、わかってきたの。あたしもあのころは、利用者の立場でみていなかったかもしれない…」
と肩を落とされていた。
ボランティアの受け入れも、必要なことなのかもしれないと、何人かのスタッフが気がつき、少しずつ考えるようにはなってきていた。
けれども、それを望んでいない入居者が多く、とりあげてもらうのは、むずかしいという状況があった。
いくら会議に加わっても、言語に障害がなく、すぐ反応でき、たくさんしゃべれる人たちの意見しか通らないところなのだ、と思った。
いくらがんばってみても、むしろ、そういう人たちに使われているだけ、というふうにしか思えなかった。
さらに、同じ思いをもっているように、施設からも扱われ、納得いかない気持ちになる。まじめにやっているのが、ばかばかしくなってきた。
◇むなしくなって
幼いころ、悔しくて、悲しくて、母の実家の座敷の隅でうずくまっていることがあった。
すると祖母がそばに来てかがみ込み、背中をさすってくれることがあった。
「手も足も満足に利かね~し、口もわがんねくては、つらいごども多いがもしんね~なぁ。
でも、逃げっことはできねんだぁ。しんやはそういう星の下さ生まれてきたんだから…。つらいげっとんな、だれもわがんねぇんだから、しょっていくしかねぇんだぁ。こうやって、ひとより強くなるしかないんだよ。生きてさえいれば、ええごどもあっからな…」
祖母の眼には涙があふれていた。
「ババちゃん…」
わたしは、そう呼んでいた。
以前の施設にいたとき、体の障害がわたしよりも重い先輩が、
「おれは文章なんてわかんないけど、おめえはワープロ使えばなんとかうったえられるんだ。しゃべるのにハンディあってもちゃんと武器もってるんだからな。だいじに磨いていけよ」
わたしの書いたものを読みながら言ってくれたのを、居心地のわるくなる思いできいていたことがあった。そのときの先輩の思いが身にしみてくる。
あいさつがわりにほっぺや尻をピシャリと叩く先生がいた。わたしが弱気になっていると、
「おまえは、おもしぐね~ごど、いっぺぇあっぺ。それをいっぱい書いていけばいいんだ。人がどう思うかなんて、気にすっこだねえんだがらな」
と、気合いを入れられたことがあった。
そしていまも、
「なんで書かなくなったの?」
と心配してくださる方もいる…。
見学者との関わりがあるじゃないか、といっても、
「スタッフの方も、親身になってやってくれて、いいですね…」
「スタッフの方とは、いつもどんな話をされるんですか」
そんなことばかり、にこにことしていってくるので、気晴らしにもなんにもならない。
以前の施設ではその点は、まだよかった。「いまは何しているんですか」とか、「CDいっぱいありますね。買い物に行ったりするんですか」とか個人の趣味など、そういうことに関心を持ってくれるひとが多かった。
なのに、いつも聞かれるのは、スタッフとの関わりのことばかりだ。
「親身になってやってくれて、いいですね…」
なんで、そうなるのか。
精神的ケアが行われています、ととれるPRをさかんにしているからだ。
はじめにスタッフが、運営側の理念ばかりをマニュアルどおりに言い、そのあとでわたしが見学者の質問に答える。すると、
〈なんで、そんなこと言うの?〉
と、びっくりした表情になる。それをずっと、くりかえしているのもつらかった。
実習生との関わりがあるといっても、ここでは施設の就職希望の人が多い。
就職希望の人は、ケアスタッフになってからの関わりがある。
はじめは友だちのような感じで踏みこんできて、スタッフ同士の関係ができると、スパッと態度が変わる。
びっくりし、ショックを受けながら、変わっていく姿をいやになるほどみてきた。
だからわたしは、距離をおきたいのである。
就職希望者が友だちの感覚で話しかけてくるのを、どうかわすかで、頭を悩ませていなければならない。
せめてそういう立場の人を自分の介助にあてるのは、休み休みにしてほしいとお願いした。やんわりと伝えていたのだが、あんまりちゃんと聞いてもらえていない感じがした。あんまり言うと、わがままになる雰囲気があったので、あきらめた。
しかし、もしもたのしい日々だったら、いろいろ勉強してみようという気にもならなかったかもしれない。
なんで、こんな体で生まれてきたのか。いくらがんばってみても、すべてがむなしく思えた。
そして気がつくと、神道系の宗教の集まりへ通っていたこともあった。
施設のほかに仲間ができた。けれども、宗教は問題のある団体がマスコミをにぎわせていて、誤解を招きやすい面がある。
わたし自身は体に障害を持っていて、いろんな人の手をかりなければ生活できない立場にある。
毎日の介助者との信頼関係が成り立たない状況で、そういうところへ行くのもどうかと思うようになった。
そういう集まりに行って話を聞いたり、教義を学んだりするなかで、逆にさめてきた面があった。
たとえ自分が感銘を受けても、むりやり人に勧めるべきではない、ということが、その宗教の創始者の本には、ちゃんと書かれている。
それなのに、創始者亡きあと、残された関係者の人たちが、その組織を運営するために、本を売ったり、会員を増やしたりしなければならない。会員一人一人にもそれをすすめる雰囲気があった。だから窮屈になってきた。
そこへ通っていた経験は、宗教の組織とはなんなのかを、さめたところで深く考える機会になった。そして、
「なんで、こんな体で生まれてきたのか」
それはけっきょく、だれにもわからないことなのだ、と自分の中ではっきりさせることになった。
良心的な宗教団体で、ずいぶんお世話になったところだったけれど、そんな自分のさめてきた思いもあって、みずから抜けた。
心理学の考えも、少し勉強してみようという気になった。
人を型にはめるようなイメージがあって、すきではなったが、自分の状況を思えばそんなことは言っていられない。
少しでも役立つ部分は取り込んで、前へすすむしか道はないからだ。
◇ゆれる思い
この施設ではめずらしいことだが、近くに住んでいた小学四年生の女の子が、放課後、部屋に遊びに来ていたこともあった。
「おざきしゃ~ん。あのね、おしっこんとき、女のスタッフで恥ずかしくないの?」
わたしはにっこりしながら、
「女の人っていっても、スタッフは、ただ介助の仕事でやっているだけだから、べつに恥ずかしいとか思わないよ~。スタッフは、スタッフとしか思わないし~」
ちょっとむずかしかったかなぁ。と思っていると、
「そうだよねぇ。あたしもね、小さいとき、入院したことがあるんだよ」
「へえ、そうなんだぁ」
まだ小学四年生なのに、わかってくれるんだぁ、しっかりした子だなぁ、と思った。
「ところでさぁ、おざきしゃんは、彼女いるんでしょ? そこにある手紙って、ラブレター?」
「これは、役所から、お金を振り込みましたって届いたんだよ。ラブレターだったらうれしいんだけど、ぼく彼女いないし…」
「そうなんだぁ。でもさぁ、結婚したいって思うでしょう。だれだってそうだよね」
「そ、それは、ちょっとムリかも…」
わたしは、しどろもどろになっていた。
「おざきしゃんって、いい人だね。ここに来るとさ、うるさいから帰れって言うスタッフもいるんだよ」
「え、そうなの? いろんなおはなし、きかせてもらえるから楽しいと思うんだけどなぁ」
女の子はにっこりしながら、
「そろそろ家で心配するから、また来るね」
といって出て行った。
「おざきしゃ~ん。遊びに来たよ~」という声が聞こえても、入居者会の仕事がますます忙しくなり、会議中で出て行けなかったりするうち、その子たちを見かけることもなくなった。
入居者会でも、よそ者が入ってくるのは不安だという話になっていた。
食事の場も、行事の場も、スタッフの介助中にうける屈辱をがまんしながら、何の張り合いもない生活が、このままずっと続くのかと思うと、出るのはため息ばかりである。
たしかにパソコンがあれば、それで文が打てる。
けれど、こんな日々で、創作活動をするといったって、不平不満しか出てくるわけがなかろう。むりやり書いたって、状況をわるくしていくことにしかならないし、うそで明るくした小説といっても、納得いかない気持ちが残るだけだ。
施設全体をまとめている立場のスタッフからのヒアリングが毎年あって、現場の状況を、正直に伝えていた。
そのときに、そのスタッフの方が地域でアパートを借りて暮らすことをすすめてくださっていた。
「尾崎さんみたいなひとが、こんなところに引っ込んでいるのは、もったいない気がするんです」
けれどわたしは、もしも、体の障害が急変して、親に迷惑をかけることになったら、という不安もずっとあった。
同じやりとりを、何年かくり返すうち、わたしの考えも徐々に変わってきた。このままずっと施設にいれば、親を安心させることにはなる。けれど、わたしにとっては生きる意味のない日々が続くばかりだ。きっと悔いが残り、親のせいにして、恨むようになる。そんな気がしてきた。
◇どちらにしても、たいへんなら…
どんなに重い障害があっても、施設を出て、地域で暮らせます。ときどき、施設の玄関に、そんなパンフレットがおいてあった。そのNPO法人障害者当事者団体のことを知っている人にも話を聞いていた。
ヒヤリングのスタッフも、そこに相談するようすすめてくださっていた。
思いきって、相談のメールを送った。
「施設を出ても親に迷惑をかけないで、アパートで暮らせます。ヘルパーを使って、自立生活プログラム、体験してみませんか」
という返事が届いた。
体の障害がわたしと近い脳性まひのスタッフの方が、担当になってくださった。体の状態が近ければ、発生してくる問題も、共通するものが多いはずという考えからである。アパートで暮らすためのノウハウを学んだ。
そのあいだ、母が施設に面会に来るたび、なんど言い争っただろう。
しまいには、
「真也が決めたんなら、もう、なんにも言わない」
母も黙認してくれた。
「お別れ会は、どうしましょう」
施設のスタッフから、聞かれた。
「施設での思い出を話してください、って言われるんですよね。別に何にもないので、困りましたね」
「はぁ。しないほうがいいですか」
「そうですね。話すような思い出はなんにもないので…」
「…わっかりました」
そんなやりとりをした気がする。
つらい思いを訴えているのに少数派だからと無視してしまう組織や状況をつくっているなにかへの、たまっていた怒りがわたしにはあった。そのなにかは、施設という枠を超えたところに存在しているのかもしれない…。
◇障害があるからこそ、いろんな人のいる地域のなかで…
アパートの湯船につかって、いつのまにかゆったりした気分でいた。入浴介助にみえていたのは、おだやかな感じの男性ヘルパーさんだった。
「ところで尾崎さん、ひとり暮らしになって、どのぐらい、たちますかねぇ。だいぶ、なれてきたんじゃないですかぁ」
「う~ん、まあ、なんとか」
わたしはそう言いながら、あらためてふり返ってみる。
はじめのころは風呂に入っても、ほかのことが気になって、のんびりした気分では、いられなかったんだ…。
ヘルパーさんに、食器洗い洗剤が切れたとか、トイレのペーパーが切れそうだとか、蛍光ランプの予備がないとか、サービス時間内では買いにも行けないし、どうしましょうと言われるたびにギクリとした。
アパート暮らしでは、あらゆるところへ気をまわさなければならなかった。けれども、障害者支援団体の協力で施設を出てから、いつのまにか月日がすぎ、気がつけば、だいぶ管理のこともなれてきていた。
近くのスーパーへ電動車いすで食材を買いに行ったりすると、店員さんが、いつもご利用ありがとうございます、と声をかけてくれる。
近くに住んでいるのであろう、歩行器をひいた笑顔のすてきな八十いくつの女性の方が、あら、また会ったわねぇ、と声をかけてくれる。
心ないことを言ってくる人も多くいるけれど、それは、障害者施設にいても、どこにでもあるものだ。
わたしもいつのまにか四十歳をすぎて、人へも自分へも、あまり期待を抱かなくなった。ただ、同じ苦労、たたかいなら、あえていろんな人がいる地域でしていきたい。いまはそれをすすめてくれた施設のスタッフの方にも感謝したいくらいだ。
吹いてくる風は、ときに冷たかったりするけれど、負けてはいられない。
「……つらいげっとんな、だれもわがんねぇんだから、自分でしょっていくしかねぇんだぁ。そのうち、ええごどもあっからな…」
幼いころのババちゃんの手が、いまもそっと、さすってくれている。