雨女と呼ばれて…
「『わたしんときは、カッパ着たこと、まだないですね、エヘヘ』って、も~、な~に~」
介護者派遣サービスの事務所を出てくるとき、通院時にずっとつづけてついてくれていた今年大卒の女のヘルパーさんに言われてきたらしい。
ほおをふくらまし、明るく笑っているのは、ふくよかな女のヘルパーさんだった。三十歳をすぎたぐらいだろうか。
「尾崎さんの通院介助、久しぶり」
アパートから電動車いすの後ろをついてきてもらう。診療所への道すがら、いまにも降りだしそうな空を、しきりに見あげていた。はじめは気づかなかったが、
「あたし、雨女で…」
言われてみると、このヘルパーさんとは雨具を着せてもらって出かける、というイメージが、気づかぬうちにぼくのなかにも定着していたのだった。友人や知人と出かけるときも、いつも雨に降られ、その場のみんなに横目でみられているのらしい。
「すみません…」
「いえいえ、たまには雨の中も、風情があって、いいじゃないですか」
それにこの日はめずらしく、ぽつり、ぽつりといった程度だ。だからカッパは着ていない。
「きょうは、あまり降らないといいなぁ」
ヘルパーさんは、また空を見上げていた。
平成二十二年十一月二十六日は曇ったり晴れたりの空だった。かかりつけの街の診療所で、少なくなってきた薬をもらい、ついでに健康チェックをしてもらおうと思い、午後二時ちょっと前にアパートを出てきたのだった。
オレンジや黄色の葉をつけていた街路樹も、ちらほら裸木になっていた。途中の家の庭の木になっていた柿も、すっかりなくなり、枯れ葉が数枚だけ揺れている。去りゆく秋の気配を感じた。
歩道に散る枯れ葉を踏みながら、電動車いすで進む。トレーナーにダウンのジャケットを羽織っていたが、後ろをついてきていたヘルパーさんは、それよりだいぶ薄着だった。
横断歩道で横に並び、襟元を直してくれながら、
「寒くないですか」
「うん、ぼくは、だいじょうぶです」
「あたしは肉ぶとんまとってるから…、平気だけど、尾崎さん、ほっそりしているから…」
なんとなく思いのこもった声だ。込み上げてくるものをやっとこらえながら、どうしたらいいか迷っていると、信号が変わり、
「青になりました。ハハハハハ」
うまくごまかしながら、電動車いすで進んでいった。と思いきや、うしろからついてくるヘルパーんが、
「なにを笑ってるんですか、尾崎さん!」
診療所の待合室は、いつもより込んでいて、マスクをした人が多かった。風邪が流行っているのかもしれない。いまは季節の変わり目だ。それにインフルエンザの予防接種で来ている人もいるのだろう。
診療所の待合室は、いつもより込んでいて、マスクをした人が多かった。風邪が流行っているのかもしれない。いまは季節の変わり目だ。それにインフルエンザの予防接種で来ている人もいるのだろう。
しばらく待っていると、呼び出しの声がかかり、診察室へ入る。
「こんにちは」
七三に髪を分けた四十代後半の男の先生が、おだやかな笑みを浮かべていた。
電動車いすをとめると、ぼくの顔色のようすをみてから診察をはじめる。にっこりしながら静かな声で、
「血圧も、正常ですね」
と言われてほっとする。
「痛み止めの座薬を六個、出しておきますね」
「はい」
頭を下げて、診察室を出た。
薬局で薬剤師さんから、
「痛みが出たときのお薬です」
それを受け取る。運動神経にかかわる障害で、寝ているとき以外は、自分の意思に関わらず、力が入り続ける。
長いあいだに不自然なかたちで筋肉が使われてきた結果、首の左側、下から二番目の骨が曲がり、神経が触っているらしい。整形外科で何年か前にレントゲン写真を見せられ、その説明を受けた。
座薬はそれで強い痛みが出たときに使う薬だ。
けれど、あとはアレルギーで軽い咳が出るほかは、いたって健康だ。
薬局を出る。あたりの建物に、やわらかな日が映え、街路樹の影が伸びていた。午後の三時を過ぎたばかりだった。
するとうしろのほうで、
「エッヘン、きょうは雨、降らなかったもんね」
勝ち誇ったかすかな呟きが、たしかに聞こえた…。