東日本大震災でおなかがすいて
割りばしをつけたサンバイザーをかぶり、パソコンに向かう。
あたまを動かしながら、割りばしの先で一つ一つキーを押し、メールの文をつづる。
「○○さんは、だいじょうぶですか。ぼくは、おかげさまで、なんとか無事でした」
〈東日本大震災〉があってから、もう少しで、ひと月になる。あの日をふり返る。
パソコンが踊るように倒れ、スピーカーが棚から落ち、電子レンジ、炊飯器、いろんなものが一斉に落下した。午後の三時少し前だったろうか。
「平成二十三年三月十一日、東日本大震災 発生」
被害の甚大さは、時がたつにつれ、現実味をおびてくる。津波で壊滅した町、地盤の沈下、地すべりで、住めなくなった家々の映像が、テレビや新聞で、連日報道されていた。
部屋で座っていても、気を抜けば、そのまま振り飛ばされてしまいそうなほどの揺れだった。ちょうど訪問していたヘルパーさんが帰る前で、それがさいわいだった。
「前の宮城県沖地震のときは、もっとゆれたんですか?」
聞かれてすぐさま、ぼくも、
「いや、いまの地震のほうが、ゆれは大きかったはず」
三百年に一度の大地震だったと、あとで人づてに聞く。
おそらくだれにとっても、一生、忘れることのできない災害の日になるだろう。
余震がやまず、ひとりでは危険なので、その晩は、太白区役所のロビーへ避難し、一晩過ごした。余震があるたび、どきっとし、悲鳴をあげる人もいた。
時がたっても、余震がおさまる気配がない。そのままずっといるわけにはいかなかった。
脳性まひ、という運動神経にかかわる障害がある。手足が不自由で、話すにも舌がもつれ、はっきりした言葉にならない。
耳のいい人や、関わりなれた人でないと、こちらの話をうまく聞きとれなかったりすることが多い。
いつも関わり慣れているヘルパーさんたちも、地震の被害に遭っているのだ。介助が必要な時間に来てもらう、ということもむずかしそうだ。
そこで区役所の職員さんが、しばしのあいだ、受け入れてくれる介護施設を探してくださった。
「あちらのほうが、専門の介護員がいっぱいいるので、少しは体が休まるかと思います」
そして一週間ほど、介護施設でお世話になっていた。
どこにいても、食べ物があまりなく、そのたびに、地震の被害の甚大さを思う。
その部屋で布団にちょこんと座り、たたんである掛け布団の上に携帯電話をおく。鼻でボタンを押しながら、あちらこちら連絡をとる。あるいはぼんやり過ごす。
「おなかが、すいたなぁ」
そこへ介護職員さんが夕食を運んできた。
「あぁ、やっと食べれる」
喜んだのもつかのま、介護職員さんが、きょうのはご馳走ですよ、とスプーンでぼくの口へ運んでくれようとしていたのは、なんと、
「京都の名物で、イナゴの佃煮です」
さらっと言われ、よくみる。
「マジですか。よりによって、こんなときに、イナゴの佃煮を…」
「やめ、ときますか?」
そのあいだも、おなかはグウグウ鳴りつづけていた。
「た、た、食べます」
満たされぬ食欲に、もはや打ち勝てず、イナゴはきらいだったけれど、目をつぶって食べた。
ふたくち、みくちとすすむにつれ、いつのまにか、なんともなくなった。
「じつはぼく、イナゴ、苦手だったんですよ。でもなんか、克服しちゃったかも…」
思いきって食べてみると、小魚の佃煮と、そんなに変わらなかった。
「震災で、きらいな食べ物、克服しちゃったんですね、ハハ」
その話を実家へ移ってから母にもしたら、
「イナゴ、食えるようになって、いがったべぇ」
と笑っていた。
アパートの壊れた箇所も、大家さんに連絡して直してもらった。電気、ガス、水道とだいじょうぶですよ、と言っていただき、四月六日にひとまず自分のアパートに戻った。
踊るように倒れたパソコンが、無事に動いたときは、ラッキー と声をあげてよろこんだ。これまでの資料を失わずに済んだからだ。
たくさんのメールは知人やネットで知り合った方からだった。
その次の晩、部屋の壁や天井がきしんで、大きく揺れだした。すぐにパソコンをオフにし、そこから離れる。高い棚のない場所へ這っていき、おさまるのを待つ。夜の十一時半を過ぎたころだ。
「がんばろう。元に戻るまで、たいへんなのは、みんないっしょなんだ…」
苦く笑いながらも、前回のときよりは、われながら、落ちついていられた。細々したものが散らかっただけで、アパートも、電化製品も、無事だった。
またいつ、震災に見舞われるかしれない。けれど、すべきことをしているのなら、それ以上のことは、ジタバタしたって始まらない。
「尾崎さん、無事ですか」
「困ったことがあったら、遠慮なく、連絡ください」
届いていたたくさんのメールを、もういちど、一つ一つひらいてみる。
「なんでも来い。まけるもんか」
胸に勇気が湧いてきた…。